思いやりのない教会運営

教会がカルト化するときの過程での陥りやすい危険な偽りの思いやり

指導者とみられる牧師のほとんどが1度や2度犯す失敗しやすい罠について:
思いやりだと思い込んで信徒を忠告したり、説教したりするときに陥るものである。

 ある信徒が不倫をしていることが発覚した。そのとき牧師は直接その女性を呼んで忠告した。
その行為がその人のみならず相手の人をも不幸にすること、
また教会を内部から破壊していくものであることを忠告した。
それ自体何の間違いもない。むしろ好ましいやらねばならない羊飼いとして当然のことである。

 しかし、問題はそのやり方である。
 三島由紀夫は「葉隠入門」のデリカシーのところで、次のようにコメントしている。
「忠告は無料である。われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかわりに、
無料の忠告なら湯水のごとくそそいで惜しまない。
しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめったになく、
人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、恨みをかうことに終わるのが10中8,9である。」
この忠告に関しても武士たるものはこのようにせよと「葉隠」を記したが、
これは1700年佐賀藩主第2代鍋島光茂は亡くなるがその彼に仕えた山本常朝(じょうちょう)
がその後10年を経たときに隠遁生活中で語ったものである。

 忠告するときに武士は次のように心せよと記してある。
これは、現在21世紀の今の日本の教会を預かっている牧師に痛烈な一撃を与えてくれるものである。

 「葉隠」を要約してみよう。
「人に意見をして間違いを直すことは大切である。
それも慈愛をもってするは御奉公の第一である。意見をすることは骨折りなことである。
大概人の好まぬこと、言いにくいことを言うのが、親切のように思い、
それを聞き入れてくれない場合、力及ばなかったと言う。
何の益にもならず、ただいたずらに人に恥じをかかせ、
悪口を言うに等しいことと同じである。ただ自分の胸を晴らしているに過ぎない。」

このような説教を毎日曜日に聞いている信徒は、
牧師の胸のゴミを飲み込んでいるゴミ箱的役割を演じさせられているようなものであろう。
ゴミを食べて成長する信徒はいない。
ただ栄養不足で育つ子供のように、そのゴミを家庭で散らかすことになるので、
家族はバラバラとなり、愛のある家庭など作れるはずがない。

 さらばどうすればいいのか「葉隠」は言う。
「そもそも意見というのは、その人が受け入れられる状態にあるかないかをよく見分け、
その人とまず入魂(じっこん、親しくなる)になることが大切である。
意見を言う人自身が平素信用されている行動をとっていることが先決である。
その次に、趣味の道などに引き入れ、意見することばを種々に工夫し、
時節を考え、文通や雑談の末などの折に、
自分の失敗談などをまじえながら、
直接そのことに触れずに思い当たるようにすること、
またはまずその人のよきところなど誉め立て、気を引き立たせる工夫をし、
渇く時に飲ませるようにその相手の人の間違いを直すことが意見である。
そうしないと本当にむずかしいことである。」

 この心憎いまでの配慮を武士に要求した「葉隠」は、
豪胆勇気に満ちた武士の中に潜むもっとも武士たる資質の核を見る思いである。
常朝はただの武士ではなく、大和魂を培う師匠として人間心理を十分に知り尽くしていた。
決して楽天的な説教者ではなかった。

無知蒙昧な説教者が理屈を並べて、聖書のことばを曲げて引用し、
人を自分の教会に押し留めおこうとする羊の衣を着た偽牧者がいる。

 教会出席人数を誇り、その会堂の大きさを誇り、
枝教会の数をビジョンに掲げ、
信徒を叱咤激励し奉仕に報いあるとする説教をする偽牧者は、
自分に気にいらぬ者たちに人前で意見をするなど、
武士の風上にもおけぬ輩であると常朝は言うのである。





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